昭和42年12月26日 朝の御理解



 御理解 第21節
 「信心せよ。信心とは、わが心が神に向かうのを信心というのじゃ。神徳の中におっても、氏子に信なければおかげはなし。カンテラに油いっぱいあっても、芯がなければ火がともらず。火がともらねば夜は闇なり。信心なければ世界が闇なり。」

 御理解21節「信心せよ。信心とは、わが心が神に向かうのを信心というのじゃ」と。神に向かうと言う事はどう言う事であろうか。「神徳の中におっても、氏子に芯がなければおかげはなし」と。ね。「カンテラに油一杯あっても芯がなければ火がともらず」と。神徳の中におると言う事はどう言う事であろうか。氏子に芯がなければカンテラに油が一杯あっても火がともらないと言う事はどういう様な事であろうかと。
 ここんところをひとつ分からせて頂くと、おかげを受けられる。信心とはわが心が神に向かうというのはどういうことだろうかと。成程お参りをさして頂こうと思うたら、心が神様に向うたのである。御祈念をさして頂くために拍手打ったら、もうすでに神様に心が向いたのである。けれどもそう言う事ではないと思うね。おかげに繋がる神様へ向かうというのは。ひとつここの所を分からして貰わなければいけませんですね。
 仏教のお説教の中によく出るお話なんですけれども、「火の車、作る大工はおらねども、己が作りて己が乗るなり」と、ね。お互いが年の暮れともなってまいりますと、本当に打ち出の小槌が欲しいところですね。はあここに本当に百万円あったら、いやもう百万こといらん、50万でええ。いやもう50万こと言わん、10万でありゃいい。いや5万でもいい、5万ありゃあどうやら正月がしあす師走が越せれる。
 本当にここにひとつ打ち出の小槌でも欲しいところだとこういう気持ちは昔も今も変わらない、同じなのである、ね。そこで私、その仏教のそれじゃないですけれどもです、ね。「火の車、作る大工はおらねども、己が作りて己が乗るなり」と。打ち出の小槌が欲しいて、ここにいくらいくらあったらこの(関キ?)が越せるけれどもと、まあ思う、本当に打ち出の小槌があるならばと思うのですけれども、あるです、ね。
 それでその、打ち出の小槌というのはです、ね、神様がご褒美に下さるのでもなからなければ作って下さるのでもない、己が作るのであると、己が心で。火の車も己が作るのであるならば、やはり幸せの、いわゆる極楽に行くのも地獄に行くのも、言うなら、はいわが心だとこういうことになるのです、ね。私は「信心せよ。信心とは、わが心が神に向かうのを信心というのじゃ」とこう仰る、ね。
 そういうそこんところに私は、心を向けることだと思うです信心とは。わが心が神に向かうと。幸も不幸も自分の心なんだと、ひとつ思いこまして頂く事なんです。自分の芯に心を向ける事なんだ。こういう心の状態で、ね、おかげの受けられるはずがない。苦しいてこれは自分がこの苦しみは自分が作っておるのだと。それを人のせいのように思う。それでは自分の心が神に向うたのじゃあない。
 神に向うというのは、私はここんところを分かることだとこう思うのですね。神徳の中におっても氏子に芯なければおかげはなしと。そういう例えば、打ち出の小槌にも似たようなお徳を教会が受けるということはどういうことかと言うと、これもその仏教の言葉の中にある福寿海無量と、ね。人間が幸せになれる、いわゆる福寿の海、もう物も金も一切の人間の幸せに必要なものが。
 もうそれこそ大きな海の中に、海の例えば水のように沢山あるということ。その中に自分達はおるのだと。神徳の中にあってもというのはそれなんだ、ね、手をちょっとここに出せば、ここに自分の思うものが、ここにあるのだ。ちょっと後ろを向きゃあ、もう自分の必要なものがここにある。別に歩く事もいらん。もう必要なものが自分の手の届くところにあるのだ、ね、それを頂くのは何かというとですね。
 いわゆる和賀心なんですよ。わが心ひとつでそれをキャッチする。それを神様にお願いをして、神様から頂くというような、だから神様ばっかり拝むことになるのである。わが心が神に向かうというのは、どうぞお願いしますと言うて、神様に言うなら、神様に向かうのでなくて、自分の心に向かう、ね。四神金光様が「おかげは神から出ると思うな、氏子の心から出るとぞ」と仰った。
 同じでしょうが、ね、火の車を作る大工はおらんけれども、自分が作って自分が乗るというのも同じことなんです。自分がそういう火の車に乗らねばならんようなあさましい、言わば生き方をしておるから自分がさっさと火の車を作って、そして自分が乗っておる。自分でさっさと、それこそ、ね、人からは強欲だ、ね。ね、しみったれだと悪口言われながらです、ためあげた、そのためたそのお金で苦しんでおる。
 言った様な人達は世の中に沢山ありますよ。その自分が作った財産でもう自分が身動きできないというような人が。こんな馬鹿げた話はないじゃないですかね。本当に私はおかげが欲しいと。ならまず、心を神様に向けなければならん。神様へ向けるということは自分の心へ向けるということだと、ね。『自分の心の中に火の車を作る材料もありゃあ、打ち出の小槌を作る材料も自分の心の中にあるのだと』、ね。
 神に向かうというのは、ね、信心とはわが心が神に向かうというのをと仰るが、信心とはまず、自分自身の心を見極めることを教えられるのであって、自分自身の心に本気で向きを変えた時、それが神様へ心を向けた時である、ね。カンテラにどんなに油がいっぱいあってもと仰るのは、ね、自分の周囲にどのように金銀財宝がここにあってもです、氏子に芯がなければ火はともらんと仰る。その芯とはどういうことか、ね。
 昨日ある方が私に、先生お歳暮をしたいちゅうんです。先生何か言うて下さいち。もう私に毎年されるんです。実際こういうまあいいえと言うて遠慮するような方でもございませんから、言えれる人なんですけれども、実際こうやって自分と周囲を見回して見る時です、あれが必要、あれがなかけん困っておるというものがないのですよ、私は現在、ね。お金もそげん欲しいとは思わんし。
 ならもう物よりか料でんもらおうち、私はある先生から聞いたことがあるのです。ね。もう何よりかによりかやっぱ物よりか料が一番よかですから、お金がよいちいう意味です。そうするとその人がよかもんば買うというわけなんです、ね。ところがその料をもろうたところで私に買う物がないもん。先生コートがもうあのう大分こう、襟の辺りがすりきれとるようですからっちゅう。
 いやあ、まだあれでええって、まあだあんたが本当にもうけでーちから5年か10年先でまあちょうどよかちゅって私(笑)。そしたら横から家内が言いよります。あの、○○さん、先生ばあの骨董屋へ連れて行きなさいち、そしたら先生が何か欲しいかもんがちがわんごとありますがっちいいよります(笑)うん。そりゃあ確かにあるかもしれませんね、骨董屋どん連れちいかれるんなら(笑)。
 そりゃ、こりゃええなありゃええなというのがありましょう。ところがその好きな骨董であったにいたしましてもです、私や自分で好きや好んで自分で買おうとは思わん、ね。夕べも、もう40年も昔に頂いておったという、もうそりゃあもう見事な大きな壷なんですね、それが、まああそこの共励殿に置いてあるのがちょっとこう貧弱、このくらいな壷を置くといいけどなあと思いよったのが、夕べある方が持って来て下さった。
 古い物だけれどもと言うて、ね。そら私もやっぱりその欲しい、あそこにこうして置くといいなあと思うけれどもその、欲しいというその、もし私が欲しい、これは欲であります。だからそういう欲を出してはならない。神様が集めて下さるものならそれは有り難く頂こうけれどもです、だから、なら骨董というようなことになってくるともうこうきりがない、限りがない。
 そういうようなものが、私が欲するようになったら、私あげんとが、あげな車由が一本欲しい。ああいう置物が欲しいというようになったらつまらん、ね。けども昨夜のようにそうして神様が私の心を見通しのようにこうしておかげを下さる、ね。これはまあ私有り難いと思う。けどその方が言うて下さるようにですね、先生、何か欲しい物ないか、何か言うて頂かにゃんて。
 いろいろ考えさして頂きよったら、まあそんならあの、私のこの一番下に着ておるこのめりあすの下着がある。これね。一番下に着ております、この和服の下に着るこう、下着です。ならそれば2枚ばっかりなら、買うて頂こうかっち。そげな、それじゃあもうあんまり、ご歳暮が貧弱だとこう言う。
 けれども今必要だって言うなら他にない。これがあの肉色のは私いくらも頂いておる。私は今年は私は40歳くらいまではまだ、皆さんもご承知でしょうけれども私この下にジバンていうものを着たことがないのです。なかったんですよ。これ私もおしゃれですから、ここにメリアスのこのあれが出て、出るのが大嫌いなんです私は。けどもやっぱりもう、それこそ40から50いくつまでの間は着てきたわけですね。
 ところが私は今年から着てないんです。これから若返らしてもらおうという。ほんで私はもううっ、うでの肌をさする音ですよね、ですからこの下の下着が欲しい。そりゃ下着はあるのだけれどもです、その皆、(めりあせいろ?)というですか、あの肉色のやつです、肌色のやつです。そしてやっぱり下にこう、白い襟がちょっとのぞかなければ見苦しい、黒衣の下に。
 だから白であるならばそれがいいから、その白のをまああるかどうか知らんけれども。今頃、ね、男もんのお和服の下に着る、そういうシャツがあるかどうか分からんけれども、もしそういうものがあるなら、それがなら買うて頂こうかと。私が申しましたら、先生、そういうことは、我欲に通じるとでしょうかっちゅう。骨董を、骨董屋に連れて行って、こりゃええなありゃええなと言うのと。
 私がこの肌着が欲しいと言うのと、その欲はどういうふうに違うかとこういうわけなんです。ですから、骨董が私が、そんならあんたがせっかくそげん言うて下さるなら、軸を一本ここに買うてもらおうかと、ここにこういう置物一つ買うてもらおうかなと、ね、向こうはこうお歳暮にどうかしたいと言うのだから、それは言うけれども、これは私は我欲になるとこう思うとる。
 けれども○○さん私はこの肌着を今欲しいと言うておるこれは、これは我欲じゃないっちゅうんです、ね。というふうに私は申しましたけれどもですね。我欲を外すということ、ね。我欲を外すということは、もうそこには限りのないものがここに与えられるように思うですね。自分が求めてああこうというのじゃなくてですたいね、『必要なものが必要に応じて集まってくる』、ね。
 そこんところをまあ説明すると難しいですけれども『所謂骨董品を欲しいと思う心と、私のこの肌着が欲しいと思う心とは、是は別である。』お互い信心をさして頂いて、おかげを受けると言う事。それにはまず自分の心が神様へ向かわなければならん。自分の心が神様へ向かうと言う事はどう言う事かと。神様を拝む事もお参りをしようと思う事も、神様に向うたのだけれども、それはここで教祖が仰っておる。
 次のおかげに繋がる向かい方ではない。本当に自分の心が神様に向かうと言う事は、ね、火の車を作る大工はおらんけれども、自分で作って自分が乗ると言う事、ね、と言う事を私は信じる事だと。そんならそれと反対の事にです、お互いが欲しい打ち出の小槌もです、神様から頂くのではなくて、自分で自分の心で作るのだと言う事です。それじゃあ、こういう心では火の車しか作らん。
 こういう心にならなければ、打ち出の小槌は作られないと言う事を、分からしてもろうて、いよいよ自分の心に自分のあり方を求めていくという、そこに私はわが心が神に向う、た信心というのは言えるのじゃないかと。四神様はそこん所をおかげは、ああ(「ああ」はモハイのつもり)神から出ると思うな、氏子の心の中から出るのぞと仰る、ね。だから氏子の心から出る、そこん所を教えて頂くのが信心なんです、ね。
 そこんところを思い込まして頂くということが信心なんだ、ね。カンテラに油いっぱいあってもとこう仰る、ね。これは仏教の経典の中にも、やはりそこんところをはっきり言うてありますように、ね、教祖の神様はそこんところをここに点りカンテラの中に油がいっぱいあるようなもんとこう仰っておられる。そこに火を点ずるところの芯がなければ火は灯らずと仰るように、ね、
 その芯を求めて、そこに火を点ずるところに、ね、真っ暗いところが明るうなるようなおかげを受けられる、ね。氏子に芯がなけれりゃ火は灯らん、信がなければ世界は闇とこう仰る、ね。私共の信心によってそこんところを分からしてもらう。カンテラに油がいっぱいある。私共の求めておるものがここにいっぱいある。そこんところの見極めが大変大事であると、ね。私に今必要な物と言っては、実際はない、ね。
 けれども、ないと言うても骨董屋に連れて行きゃあ、あると言われるようにです、はあこれはええなあ、ありゃええなあと、なら思わんでもなか、何か仮り語になっている、欲しいと思わんでもないけれども、これは私は自分の心の中にまあ言うなら、極端に言うなら、そういうことはめぐりをつくるようなものだと、言うなら火の車を作るようなものだと。けれども私のこの肌着を私が求める。
 それも私がこの肌着が欲しいな欲しいなというのじゃなくてです、ね、どうぞとそのお歳暮のひとつもさして頂きたい、ね。ですからコートの、先生がコートと言やあコートをおかげ頂こうという人があるけれども、ね、これはまあだもったいない。まだ私が着れておる、ね。折角ならそんなら私はこの肌着を、洗い換えと共に2枚ばっかりならおかげ頂いてもらおうかとこういう、ね。これは私は、ね、
 福寿の中にあって、別に私がつまんでも、私がそのわざわざしなくても、自分の側にそれがあるようなものである。これは私が、欲ではないというふうに、まあ申しましたですね。ならこの辺のとこは皆さんがちょっと工夫して頂かにゃいけません、ね。衣食住と、そういうようなものは私共にはどうでも必要なもの。骨董品といったようなものは必要でないと言やあ必要でないもの、ね。
 そこんところに同じ欲しい物と言うてもですね、そこんところを見極めていく必要がございます。与えられるからと言うて、さっさとなら、神様から与えられたんだからと言うて、なら私が限りなしにここで御神酒を頂いておるから、はあ神様下さるもんだからと言うて、毎晩私があびるようにそれを頂いたとするならどういう結果になるかということを思うてみればよいのである。
 そこのところの見極めが大事、信心さして頂く者は。ね。私はそれを勿体なしとこう思うておる。沢山のお米があるから、私くしゃそんなら渡渡、もういっちょう食べてもよかろうとは私は決して言わん。やっぱり「私の方ではどがしこお米の中にうずまるようなおかげを頂いても、恐らく2食以上は頂かない。お客さんのない限りはやっぱりお粥さんでと。」これだけは、私は勿体ないというところにです。
 私は福寿海無量のおかげが頂けれる、その要素というものがあるとこう思う。皆さんがいろいろ工夫して頂かねばならんけれどもです、ね、わが心が神に向かうということは、ね、いわゆる火の車を作る大工がおらないように、ね、やはり打ち出の小槌を神様が下さるのではない。自分の心で作るのだと、ね。そこに私は心を向けた時に、心を神様に向けたということになるのであると。
 そこんところを私は今日分かって頂きたいとこう思うのです。もう一遍読んでみましょうね、第21節「信心せよ。信心とはわが心が神に向かうのを信心というのじゃ。神徳の中におっても、氏子に信なければおかげはなし。カンテラに油いっぱいあっても、芯がなければ火がともらず。火がともらねば夜は闇なり。信心なければ世界が闇なり。」と。という御理解をですね、今日はそういう角度から私が火の車と打ち出の小槌の例をとりました。そういう角度から今の御理解を頂いたわけなんですね。
   どうぞ。